今後数年間、中央銀行はパンデミックと戦争から生じた新たな課題に直面する
世界のインフレ率高騰は、数十年続いた緩やかな物価上昇に突如として終止符を打った。これは世界的なパンデミックとロシアのウクライナ侵攻が重なる異例のタイミングで起きた。
今、エコノミストたちは問わなければならない。「われわれはこの時代から、金融政策についてどのような教訓が得られるだろうか」と。いずれ世界が低金利・低インフレの環境に回帰するとしても、金融政策に関係するパンデミックと戦争の教訓を考察することは間違いではない。われわれは大半のエコノミストが予見できなかった現下のインフレ率高騰の原因を解明し、金融政策が今後どのように変化すべきかを理解しておく必要があるのだ。
しかし、高インフレ、サプライチェーンの混乱、貿易障壁の拡大などの危機の影響は、長期化、あるいは激化する可能性もある。そうなれば、新興市場国を中心に世界のマクロ経済の安定性が脅かされるだろう。このシナリオを回避するにはどうすればよいだろうか。
インフレ率高騰の理由
価格急騰は危機前の政策枠組みの観点から見ると想定外の事態であり、特に先進国は意表を突かれる格好となった。実証的エビデンスは、失業率が低下してもインフレ率が僅かにしか上昇しないことを示唆し、非常にフラットなフィリップス曲線と一致していたからだ。このエビデンスはパンデミック前のインフレ状況にも裏付けられており、当時は金融刺激策で失業率が極めて低い水準まで低下しても、低インフレが続いていた。
しかしながら、傾斜の緩やかなフィリップス曲線を織り込んだモデルは、パンデミックに伴う物価急騰を上手く説明できなかった。IMF職員の予測も含め、こうしたモデルに基づくインフレ予測の大半は、インフレ率を著しく過小に予測したのである。
高インフレは異例の事態を反映している部分があるにしても、一部の予測エラーは、フィリップス曲線や経済の供給サイドに対する理解の誤りに起因している可能性が高い。
標準的なフィリップス曲線はインフレ率と失業率ギャップを関連付けているが、急速な雇用回復はインフレを後押しする上で大きな役割を果たした可能性があり、これまで認識されていたよりも「スピード効果」が重要であることを示唆している。また、失業率の低下による物価・賃金圧力は、完全雇用を下回っている場合と比較して、経済が過熱状態にある場合の方が一段と深刻になるため、フィリップス曲線の傾斜には大きな非線形性が存在するのかもしれない。最後に、サービスの需要・供給の制約に伴って大規模な景気刺激策の資金がモノに流れ込んだが、この回復期にモノの物価が高騰したことは、部門レベルおよび全体レベルにおいて生産能力の制約が重大であることを示している。
金融政策の教訓
以上の洞察は、パンデミックの教訓を反映する優れた総供給モデルが必要であることを示唆している。例えば、モノとサービスを区別する部門別モデルの作成を進めること、そして部門レベルと全体レベルの両方でスピード効果や非線形性を勘案できるように、部門別の供給能力の制約を織り込むことは有益である。
しかし、パンデミック前に広く支持されていた、フラットなフィリップス曲線に基づく政策処方箋も見直す必要がある。
ある処方箋は、自然な水準を大きく下回る失業率について、許容するだけでなく、むしろ望ましいとさえ考えるものであった。パンデミック以前の米国や他の先進国では、経済を過熱状態にすることが上手く機能しているように見えた。失業率は不利な労働者も含めて過去最低の水準まで低下したのに対し、インフレは目標を下回る状況が続いていたのだ。
しかし、経済の過熱に伴うインフレのリスクは、以前考えられていたよりも遥かに大きいかもしれない。
また、パンデミックは経済の余剰能力を測定することの困難さも浮き彫りにした。測定ミスはフィリップス曲線がフラットな場合には大した問題にならないが、失業率が非常に不確実な自然水準を下回り、フィリップス曲線が非線形である場合には深刻な問題となる。このような状況において政策当局者は、失業率を不本意に自然失業率の(過度に楽観的な)推定値を下回る水準まで押し下げ、インフレ急騰に油を注いでしまうかもしれない。1970年代の大インフレ期にはこうした事態が生じていたと考えられる。さらに、経済を過熱させると主要部門が生産能力の限界に達してしまう確率が上がり、そこから生じたインフレ圧力が広範に伝播する恐れがあることも、パンデミックによって示された。
状況によっては経済の過熱が望ましい場合もあり得るが、政策当局者は潜在的なマイナス面に注意し、過度な刺激に慎重になるべきである。
パンデミック以前の考え方をもうひとつ挙げると、主要な中央銀行は信頼を基盤に、石油価格の上昇などの一時的な供給ショックを「無視」し、インフレを一過性のものだと想定することができる。政策金利は二次的な影響、すなわちインフラへの持続的な影響に応じて調整された。だがこうした影響も基本的に小規模なものだと判断されていたので、政策当局者は大きなショックにさえも大きな手を打つ必要がなかった。それがインフレと雇用のトレードオフ上好ましかったからである。
パンデミックは、いかに供給ショックから、広範かつ持続的なインフレ効果が驚異的な速度で生じ得るのかを明らかにした。一部の産業で強力な価格上昇圧力が生じれば、サプライチェーンを通じて賃金に波及したり、インフレ期待に作用して価格・賃金の設定に影響を与えたりする可能性がある。
これは、一定の状況において中央銀行がより力強い対応を取るべきであることを示唆する。鍵を握っているのはおそらく初期条件である。つまり、既に高インフレ状態にあって、追加のショックが物価期待を不安定化する懸念がある場合には、一時的なショックを無視すると問題が生じかねない。さらに、生産者が上昇コストを簡単に転嫁し、労働者が実質賃金の低下を容易に受け入れない好調な経済において、中央銀行は政策対応にもっと積極的になる必要があるだろう。また、ショックが特定の部門に集中しているのではなく広範囲に及んでいる場合にも、中央銀行は積極的に対応すべきだと考えられる。
長期化のリスク
フィリップス曲線やそのフラットな曲線を前提とする政策処方箋の教訓は、パンデミック以前のような低金利・低インフレの環境になって供給問題が解消しても適用できるだろう。だが、インフレ期待の不安定化を招く永続的なインフレ、そして世界サプライチェーンと自由貿易の慢性的な混乱がさらに進行する可能性も拭いきれない。
高インフレによるインフレ期待の不安定化は主要なリスクのひとつであり、現実のものとなれば金融政策のトレードオフを複雑にするだろう。通貨の下落と供給ショックはどちらも極めて長期的なインフレ効果をもたらすからだ。インフレ抑制のために金利をさらに引き上げれば、生産活動が大幅に縮小しかねない。一部の中央銀行が昨年に早期から行った大幅な引き締めは、不安定化リスクの緩和に寄与したものの、中銀総裁たちは引き続き警戒するべきだ。
中央銀行の課題は供給ショックが定着した場合にも深刻化する恐れがある。この事態が生じ得るのは、各国がサプライチェーンの混乱リスクを低減すべく貿易障壁を設けようとするケースである。すると各国はさらに大きな供給ショックのボラティリティに晒されるため、厳しい金融政策のトレードオフを迫られ、経済の安定化が一段と困難になる。
貿易の分断化が進み、インフレ期待が不安定化すれば、新興市場国の中央銀行は特に損害を被るだろう。こうした国々は既に外的ショックへの脆弱性が高く、より厳しい政策トレードオフに直面することが危惧される。 総じて、パンデミックと戦争は均衡実質金利(経済がインフレを招くことなく長期的に潜在GDPを達成する金利)に影響することで、経済の需要サイドに長期的な影響をもたらした可能性がある。同金利は格差や人口、生産性、安全資産の需要、公共投資・公的債務などに影響し得る。例えば、パンデミックと戦争は、安全資産の需要を増大させ、格差を拡大させることで、均衡金利をさらに押し下げる恐れがある。
全体として、こうした影響は特別に大規模なものではないと考えられるため、均衡金利は低水準に留まるだろう。ただし、均衡金利の実際の水準については不確実性が残る。さらに、赤字財政支出への長期的な転換や、気候投資の大規模な追い上げによって、均衡金利が大幅に上昇する可能性も残っている。
政策的な意味合い
パンデミックと戦争により、各国の中央銀行はさらなる課題に直面している。先進国の中央銀行は直近の数年間で、成長を支援して低インフレから抜け出すための刺激策を集中的に講じてきた。インフレが過度に低い水準で推移するとの見方が大勢であった際、金利をゼロ近傍にすることで必要な刺激を提供することに取り組んできたのである。
だが今般の危機が中央銀行に対して浮き彫りにしたのは、リスクを管理するには過剰に低水準または高水準のインフレを勘案すべきであること、そして物価安定の目標と雇用・成長の目標の間に強い緊張が存在するという可能性である。さらに、フィリップス曲線に組み込まれた失業率とインフレ率の関係は経済が好調な時に平坦でない可能性や、エネルギー価格高騰のようなショックが好景気と不景気で異なる結果になり得ることも、パンデミックによって明らかになった。
従って、急激なインフレのリスクが明白であることから、経済を加熱させたり、供給ショックを一時的なものとみなしたりする戦略について、その頑健性を再検討することが不可欠である。こうした戦略は利点をもつ一方で、物価安定性のリスクも高めてしまうからだ。
以上が教訓であるが、パンデミックと戦争は、供給ショックを拡大し、インフレ期待の安定性を損なう懸念がある。これらのリスクは新興市場国で最も大きく、多額の債務を抱える国に著しい。しかし、インフレ率が数十年ぶりの勢いで上昇する中で、先進国の中央銀行もまた重大なリスクに直面している。だからこそ、現在の方針を堅持し、緊縮的な金融政策を維持することで、インフレが目標へ回帰する持続的な兆候を待たねばならない。物価安定性の回復なくして、持続的な経済成長は不可能である。
インフレとの闘いを主導するのは中央銀行であるべきだが、他の政策も有効性を発揮し得る。財政政策が果たすべき役割として、経済を刺激しない形で最も脆弱な人々に的を絞った支援を実施できるだろう。政策当局者は気候変動への取り組みを前進させ、経済・金融安定性の維持に努めるべきである。最後に、世界貿易の分断リスクを低減する政策は、供給ショックのリスクを緩和し、世界の潜在GDPを押し上げることに寄与するであろう。
記事やその他書物の見解は著者のものであり、必ずしもIMFの方針を反映しているとは限りません。