5 min (1403 words) Read

スウェーデン国立銀行元副総裁であり、インフレターゲット革命を率いたラース・E・O・スヴェンソンの人物像をプラカシュ・ラウンガニが紹介する

今、各国の中央銀行は困難に直面している。2021年に起きたインフレの急加速は、多くの国の中央銀行にとって予期せぬものだった。昨年、米連邦準備制度理事会のジェイ・パウエル議長は、「今回のことで、われわれのインフレについての理解が浅いことが分かった」と語った。

過去30年にわたる中央銀行運営の大幅な改善、特にインフレターゲットと呼ばれる枠組の発展がなかったら、事態はより困難を極めていただろう。こういった変革は皆で達成したものではあるが、なかでもラース・E・O・スヴェンソンほど大きな貢献をした者はいないだろう。スヴェンソンは、スウェーデン国立銀行元副総裁であり、現在はストックホルム商科大学の客員教授である。

米連邦準備理事会元議長であり、2022年のノーベル賞受賞者であるベン・バーナンキは、F&Dのインタビューで「ラースは、金融政策における重大な課題について深い洞察を提供してくれた。彼には、非常に優れた創造力と思考の独立性がある」と語った。

インフレターゲットでは、中央銀行は明確な長期インフレ目標を掲げ、政策金利を操作することで、この目標の達成を目指す。例えば、現在行われているように中央銀行が政策金利を上げると、金利の影響を受けやすい住宅やその他のモノへの消費が縮小し、インフレが抑制される傾向がある。スヴェンソンは、早くからインフレターゲットを提唱してきた。彼はインフレターゲットを熱心に唱え、中央銀行に対し継続的にその枠組を改善するよう働きかけた。特に、インフレ目標を達成するための将来的な政策の道筋を公に説明するよう提言した。

スヴェンソンらが唱えた金融操作の改善が功を奏し、各国の中央銀行は2007年の世界金融危機が大恐慌に発展することを食い止められた。当時、スヴェンソンはスウェーデン国立銀行副総裁として、危機の初期を見事に乗り越えることに貢献した。

これまでの道のり

スヴェンソンは、もともとエコノミストを目指していたわけではなかった。彼は1971年に、ストックホルムのスウェーデン王立工科大学で、物理と応用数学の科学修士課程を修了した。その後、「サバティカル休暇」中に次に進む道を考えていたところ、学部の経済史の授業を受講した。その時の教授の1人から、エコノミストはスウェーデンでは将来性のある仕事だという理由で、経済学に転向するよう勧められた。スヴェンソンはF&Dのインタビューで、「あれは、人生で最高のアドバイスのひとつだった」と語った。

彼はストックホルムで経済学博士を取得し、マサチューセッツ工科大学でも1年間過ごした。そこでは、ノーベル賞受賞者であるポール・サミュエルソン、ロバート・ソロー、ピーター・ダイアモンド、スタン・フィッシャー米連邦準備理事会元副議長、グーグル社チーフエコノミストのハル・ヴァリアンといった教授陣から学んだ。同級生には、ノーベル賞受賞者のポール・クルーグマン、IMF元チーフエコノミストのオリヴィエ・ブランシャール、欧州中央銀行元総裁でありイタリア元首相のマリオ・ドラギ、元米連邦準備理事会理事のフレデリック・ミシュキンがいた。「あの1年で得たネットワークは、その後の人生で大きな助けとなった」とスヴェンソンは語った。

彼の最初の就職先は、ストックホルム大学国際経済研究所だった。1970年代から1980年代にかけて、主に経済理論と国際経済を研究した。友人であり、長年の同僚兼共同研究者であるトールステン・パーソンは、スヴェンソンと働いていた当時のことを振り返り、「彼は研究において、他の人がより優れた制度と正式なモデルを提示しない限り自分の意見を貫くタイプだ。そして、自分の趣味にも本気で取り組む。以前は私と一緒にセーリングを熱心にやっていたが、その後はロッククライミングに夢中だ」と語った。

インフレターゲット

スヴェンソンは1990年代に、金融経済に集中した。彼が金融経済に興味を持つようになったきっかけは、スウェーデン国立銀行の外部顧問を務めたことだった。当時は、動乱の時代だった。スウェーデン国立銀行は何とか危機を回避しようと利率を500%にまで引き上げたが、欧州通貨単位(ECU)に固定されていたクローナの為替レートが1992年に下落し、その後経済が低迷していた。スヴェンソンは、国立銀行内外のエコノミストを集めた小規模なグループと共に、2週間以内にスウェーデン国立銀行に対し新たな金融の枠組を提案するよう指示された。

運よく、プロトタイプが既に存在していた。ニュージーランド準備銀行は、1989年から1990年にかけてインフレターゲットを導入し、大幅なインフレ抑制に成功していた。カナダ銀行も1991年にインフレターゲットを導入し、インフレ率を2%まで下げることに成功していた。スヴェンソンはスウェーデン国立銀行に提出した報告書の中で、「小幅なインフレ率の変動」を目指した金融政策を選択すべき「大きな理由が」あると主張した。スウェーデン国立銀行は、1993年前半にインフレターゲットを導入し、1995年までに達成すべき長期目標を2%とした。そして、その後数年で物価をこの目標値以下に戻した。

スヴェンソンは1990年代後半から2000年代にかけて、インフレターゲットの成功例を紹介し、改善することに専念した。2001年には、バーナンキ、クルーグマン、アラン・ブラインダー米連邦準備理事会元副議長、著名なエコノミストのマイケル・ウッドフォードといった、同様の研究を行う教授が多数在籍する名門プリンストン大学経済学部に移った。ジョージメイソン大学の著名な貨幣理論研究者スコット・サムナーは、彼らを「プリンストン・スクール」と呼び、世界金融危機を乗り越えるうえで重要な変化を中央銀行経営にもたらしたと評価した。

スヴェンソンの初期の貢献のひとつは、中央銀行がインフレターゲットを柔軟なやり方で導入するよう強く働きかけたことだ。彼は、インフレ率を目標に近い値に保ちつつ、経済を完全雇用に近い状態に保つという二重の責任を中央銀行が負っていることを認識していたのだ。当時、スヴェンソンはF&Dに対し、「ほとんどの中央銀行は『インフレ気違い』ではない」と語っていた。これは、イングランド銀行のマーヴィン・キング元総裁が、雇用を犠牲にしてまでインフレ対策を重視する中央銀行を指して言った言葉だ。

インフレ予測ターゲティング

スヴェンソンのさらに重要な貢献は、各中央銀行にインフレ予測ターゲティングの導入を促したことだろう。インフレターゲットの導入により、各中央銀行は既に、最新の政策決定について以前よりも透明性の高い告知と説明を行うようになっていた。しかし、スヴェンソンは、中央銀行がさらに踏み込む必要性を主張した。金融政策の影響はかなり後になってから現れるため、中央銀行が市場参加者や国民に対し将来的な計画を伝えることが重要だったのだ。

スヴェンソンは、1997年発表の有名な論文で、中央銀行は自らのインフレ・雇用予測が長期的に経済をインフレ目標と完全雇用に導く「適切な」ものとなるように、現在および将来の金利の道筋を選択するよう提言している。ジョージメイソン大学のサムナーは次のように説明する。「例えば、インフレ目標が2%だとする。そうしたら、2%のインフレを達成することを予測した政策を定める。これは当たり前のことである。政策が成功することを前提として将来的な政策金利の道筋を定めるのは当然であろう」。

しかし、スヴェンソンの研究以前は、各国の中央銀行は目標を下回る、あるいは上回る結果となる政策金利の道筋を想定しがちだった。サムナーは「それはまるで、大西洋を渡る船の船長が、対岸に着いたときには航路から200マイル逸れている地点に着くことが予想される方向に舵を取るようなものである」と記す。

ノルウェー銀行、スウェーデン国立銀行、チェコ国立銀行といった一部の中央銀行は、スヴェンソンの提言に従い、そしてニュージーランド準備銀行の例にならい、金利の道筋を公開し始めた。他にも、これに近い慣行を取り入れた中央銀行が多数ある。スヴェンソンの研究は、より前向きな金融政策へのアプローチと危機の際に革新する意欲をもたらしたと、米連邦準備理事会上級顧問であり、スヴェンソンの共同研究者であるロバート・テトローは語る。

テトローはF&Dのインタビューで、「ラースは常に不思議なほど冷静で、それでいて鼻っ柱が強い。そして、礼儀正しいけど、歯に衣を着せない」と語った。フィリップ・ターナー国際決済銀行(BIS)元高官によると、スヴェンソンは「2000年に開かれた日本銀行の会合で、抜本的な金融政策措置を最初に強く求めた1人だった」。スヴェンソンは会合用の論文で、「日本は景気低迷とデフレにより、すでに10年を失った。今のまま悪い政策を続ければ、さらに10年を失う可能性がある」と、単刀直入に述べた。

マイナス金利への移行

スヴェンソンらが提唱した金融操作の改善は、グレートリセッションの際に功を奏した。各国の中央銀行が迅速に講じた措置により、大恐慌の再来を辛うじて回避することができたのだ。各国の中央銀行は、金利を大幅に引き下げて自らがインフレ気違いではないことを証明し、完全雇用という目標に真摯に取り組んだ。市場参加者に対しては「長期的に低い」金利を維持することになると予測していることを明らかにし、透明性に関するスヴェンソンの提言に沿ってフォワード・ガイダンスを行った。

しかし、グレートリセッションは非常に深刻であったため、各国の中央銀行は苦境に立たされた。すでに金利を0%まで引き下げ、これを当分の間維持することを伝えている状況で、これ以上一体何ができるだろうか。スヴェンソンは、マイナス金利を導入し、預金手数料を徴収することにより、銀行の貸し出しを促し、消費を増やすことを提唱した。

当時、フィナンシャルタイムズ紙は「この政策の最も熱心な提唱者は、世界的に有名な金融政策の専門家であり、ベン・バーナンキと近しいラース・スヴェンソン副総裁だ」と報じた。デンマークの中央銀行は、早速2012年にマイナス金利を導入し、欧州中央銀行と数か国がこれに続いた。

未だに物議を醸しているものの、マイナス金利は中央銀行が使える手段の幅を広げたと、一部のエコノミストは主張する。IMF元チーフエコノミストのケン・ロゴフは、将来の危機に際して「正しいやり方で行えば、マイナス金利は普通の金融政策と同様に作用し、総需要を増加させ、雇用を増大させる」と語る。

異なるものは個別対応を

金融危機が始まる前の2007年、スウェーデン国立銀行はスヴェンソンをプリンストン大学から副総裁として迎え入れた。この頃、スウェーデン国立銀行はすでに、スヴェンソンの提言に従って金利の道筋を公開し、その正当性を説明していた。スウェーデン国立銀行は、2009年7月までに金利を0.25%まで引き下げた。

しかしスヴェンソンは、金利を0%まで引き下げ、必要な場合はマイナス金利も検討するよう同僚を説得することができなかった。実際、スウェーデン国立銀行は、2010年に利上げを始めた。スヴェンソンは、インフレ予測はまだ目標を大幅に下回っており、失業率は高いままだと主張し、この決定に反対した。また、「風に逆らう」ことに反対した。これは、例えばインフレや産出量といったマクロ的要素に基づけば異なる判断を下すべき場合であっても、住宅価格の上昇と住宅ローン債務水準が金融の安定にもたらすリスクに対抗するために金利を引き上げるべきだという考え方だ。

スヴェンソンは、数年間にわたり丁寧に反対意見を述べ続けたが、2013年中旬の任期満了に伴いスウェーデン国立銀行を離れた。彼は、自らが望んだ「金融政策への支持を得ることができなかった」と率直に述べた。プリンストン時代のスヴェンソンの元同僚は、すぐさま彼を弁護した。クルーグマンは、2010年から2011年にかけての利上げは「マクロ指標の観点から明確な正当性に欠けて」おり、世界金融危機における「最も根拠のない政策ミスかもしれない」と言った。

その後、スヴェンソンの判断が正しかったことが証明された。2014年までに、金利引き上げでは住宅価格のインフレを抑制することができず、デフレと経済の減速を引き起こしていることが明らかになった。スウェーデン国立銀行は、金利をゼロにせざるを得なくなり、2015年にはマイナス金利導入に踏み切った。この実験は成功であったと、後にIMFのリマ・タークがワーキングペーパーで評価している。

スヴェンソンはスウェーデン国立銀行を去った後、金融安定に関する考慮事項はマクロプルデンシャル政策に任せて、金融政策はインフレと産出量の目標のみを考慮すべき理由を論証することに専念した。彼は、ふたつの政策は「異なるものであり、個別に行うのが一番良い」と記す。スヴェンソンは自身の議論を強化するために、IMFなどでプレゼンテーションを行った。そこで彼は、金融危機が発生する確率を下げることにより金融安定を図る目的の利上げは、利益が少なく不確実性が高いことを示した。反対に、高失業率とデフレ圧力の負担は大きく、はるかに確実性が高い。

スヴェンソンの費用対効果の計算は、2015年に「金融政策と金融安定」に関するIMFスタッフペーパーで紹介された。このIMFスタッフペーパーは、多くの場合において費用は利益を上回ると結論付けている。BIS元高官のターナーは、F&Dのインタビューで、「スヴェンソンはこの論争において、彼が反対する主張にとって最も有利な経験知を用いて、厳密な理論により決定的な勝利を収めた」と語った。

常に活発

スヴェンソンは、75歳となった今も研究を続けている。最新の論文では、住宅価格の年収倍率といった、一般的に用いられている住宅価格の過大評価指標が誤解を招くものであり、金融機関が誤った政策措置を取ることにつながる可能性があることを示した。さらに、未払いの住宅ローン債務水準が高い世帯ほど、危機に際して出費を削るという共通認識に異議を唱えた。ターナーは、スヴェンソンが一般通念に異議を唱え続けていることを歓迎する。「彼が行く先々で、エコノミストたちは一層精進しなくてはならなくなる」。

プラカシュ・ラウンガニIMFの独立評価機関(IEO)室長補。

記事やその他書物の見解は著者のものであり、必ずしもIMFの方針を反映しているとは限りません。