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設立80周年を迎えるIMF、その歴史は将来の国際的リスク管理に教訓をもたらす

1944年7月にニューハンプシャー州ブレトンウッズで開催された連合国通貨金融会議(ブレトンウッズ会議)は、世界全体の課題に諸国がどう取り組みうるかについて力強く物語っている。ブレトンウッズ会議は、世界史における新時代の幕開けだった。持続的な復興、幅広い繁栄、ダイナミックな成長、危機を伴わない発展、政治的な安定の時代の始まりである。人々は今なお、ブレトンウッズに触発されている。政策当局者も学者も、一定周期でその復活、再開発、改変を試みている。

第一に、ブレトンウッズ会議は、米国財務長官のヘンリー・モーゲンソウが述べたように、繁栄も平和も不可分なものであるという大きな政治的ビジョンに支えられたものだった。いずれも他方から切り離して達成できるものではなかったのである。このメッセージが発せられた当時は、世界全体が戦争に飲み込まれていた。第二次世界大戦は、第一次世界大戦よりもずっと真に世界規模だった。新たな世界秩序の推進は、第二次世界大戦の教訓を踏まえたものだった。大恐慌という世界規模の経済崩壊が起き、それに政治的急進化が続き、世界秩序がなくなり世界が競合する経済ブロックへ分裂した結果、人が殺しあうような紛争が起きたという経験から学んだものだったのである。

第二に、世界の通貨問題への対処方法として構想されていた明確な経済の仕組みがあった。世界各国は為替レートに関するルールに従うことを義務付けられ、そのレートが脅かされることがあれば、信用組合または保険機構として設計されたIMFが支援するというものだ。この仕組みの知的基盤は、制約のない資本移動、いわゆるホットマネーフローを受けて大恐慌が発生したという解釈にあった。ブレトンウッズ機関の創設者たちは、そのような不安定化を二度と発生させてはならないと確信していたため、国際通貨基金協定では、貿易自由化への移行中でさえも資本規制を継続的に維持することを規定した。

構想を現実へ

そうした政治的、経済的な基盤は崩れ、ブレトンウッズの粗削りなビジョンは、創設者たちが意図したとおりに実施されることはなかった。それは真にグローバルなシステムとして構想されていたが、ブレトンウッズ会議では代表団が存在感を発揮していたソ連が、国際通貨基金協定を批准しなかった。IMFは、米国が強く推し進めた欧州復興のためのマーシャルプランからは除外された。世界は鉄のカーテンで分断された。設立当初の数年間、IMFは低迷しているようにさえ見えた。IMFがようやく活気づいたのは1956年、英国とフランスによるスエズ戦争介入に米国が衝撃を受け、また、欧州の大国が多大な財政負担に直面し、安全保障と金融の危機が混在した際のことだった。

ほどなく、外貨準備高は適正か、流動性は十分かということをめぐって議論が始まった。経済分野のリーダーたちは、つなぎ融資による解決策を見出した。1960年代に入るころには、諸国が国際通貨制度の改革案で苦戦する中、ブレトンウッズは木を見て森を見ずだ、との不満が高まった。 

1970年代のブレトンウッズ体制作り直しの端緒となったのも、安全保障面の課題と経済・金融面の問題が重なったことだった。ブレトンウッズ体制の基本原則である(為替レートを規定する)平価制度が崩壊したのは、産油国が価格引き上げやより強い政治的影響力の行使を推し進め始めたころだ。各国が無防備さを感じ、民主主義が圧迫されていた。IMFは、借り入れたリソースを用いてエネルギー価格高騰の打撃を受けた発展途上国を支援する「石油対応制度」という新たな手続きで対応した。

資本移動は新たな脆弱性の原因となった。1982年には、中南米で最も顕著だった債務危機が、世界の金融システムを崩壊させる恐れがあった。その当時、IMFは最後の貸し手として、そして各国の順応や銀行の救済を図る救済パッケージの調整役として、新たな形で機能し始め、新たな資金提供を余儀なくされた。

最後の貸し手

ブレトンウッズから50年後、IMFのミシェル・カムドシュ専務理事は、メキシコ通貨危機を「最初の21世紀型金融危機」と称した。メキシコ通貨危機は、中所得国への資金流入が異例なほど急増したた後に発生。1982年の中南米ショックもメキシコの問題に端を発していたが、1994年の危機は、それとはかなり異なっていた。その当時、メキシコの有価証券の保有者は比較的限られた数の銀行ではなく、非常に多様化していた。大規模な反乱が起きたほか、大統領選挙の年に著名な政治家が暗殺され、景気過熱と政情不安定に関する懸念が相まったことを受け、多様化した債権者が素早く反応した。莫大な数の債権者を集めて新たに資金提供をしてもらうことは叶わなかった。IMFが調整と執行にあたるような国家破産制度が明白な答えなのではと思われたが、その実現性は不透明だった。不安定な資本フローが引き起こした危機への対応として、多額の新規資金を提供するという精一杯の次善策だけが残り、有力な考え方として存続した。

この特定の危機についてはIMFのプログラムによって一部解決されたものの、単純に最後の貸し手として機能するには、IMF単独では十分なリソースを持ち合わせていなかった。メキシコには、為替安定基金からの200億ドルという形での米国の大規模二国間パッケージも必要だったのである。為替安定基金は概ね忘れ去られていた大恐慌時代の組織で、好都合なことに米政権が敵対する議会の承認を得る必要性がなかった。この救済措置は物議を醸し、一部の政策当局者は、IMFがある国への悪影響を回避するために別の国への貸付を行うのは不適切だと主張した。

1990年代半ばには、資本市場の規模を鑑みれば、従来の救済の仕組みでは不十分であろうという認識が生まれた。その教訓は、1997年から1998年にかけてのアジア通貨危機で、どの救済パッケージもIMFの資金支援と二国間の資金支援の組み合わせを要したことでも裏付けられた。

1995年6月にカナダ・ハリファックスで開催されたG7首脳会議で政策の影響が検証され、同会議は、やがて一般にグローバリゼーションと呼ばれるようになる状況を踏まえ、IMFの職務を再定義しようとした。首脳会議のコミュニケは、IMFに対し、経済と金融の主要データを適時公表するためのベンチマークと手順を確立するよう求めた。それに応えてIMFは2001年に、「IMFの概念的任務の中核的役割を担う」よう設計された金融資本市場局を設置した。それとともに、以前公表されていた「新興市場国の資金調達(Emerging Market Financing)」と「国際資本市場報告書(International Capital Markets Report)」を合併させた「国際金融安定性報告書(GFSR)」を半年毎に公表することとした。

1990年代以降は、明確でシンプルなルールはなくなり、ひとつの機関が国際的リスク管理の中心となるということもなくなった。サーベイランスも危機管理も複数の機関で行われるようになり、職責が重複し、新たな資金源が複数存在した。IMFの金融セクターサーベイランスでは、当初は工業先進国のみを代表するグループであったバーゼル銀行監視委員会が考案した方法が使われた。アジアでは、東南アジア諸国連合(ASEAN)が並列補完監視メカニズムを考案した。2000年のチェンマイ・イニシアティブに基づく二国間通貨スワップは、IMFの取り組みを補完することを意図したものだった。

より一層の連携が求められていた。アジア通貨危機を受けて、金融安定化フォーラム(FSF)が設立され、2009年にはこのグループが強化されて金融安定理事会(FSB)に改称された。この救済組織はグローバル・ファイナンシャル・スタビリティ・ネットとなり、地域金融取極を通じてさまざまな提供者が関与している。2009年にロンドンで行われたG20首脳会議は、ブレトンウッズの重要な動きを繰り返すものとなった。FSFを運営してきた諸中央銀行の権限を、新しいFSBに参加するより幅広い政府集団へと移したのである。

リスク管理ための教訓

このグローバルな金融リスク管理の複雑化からいくつかの教訓が得られる。

第一の教訓は、安定化に対する脅威はどこからでもやってくる可能性があるということだ。1994年から1995年にかけてのメキシコ通貨危機の後、1997年にアジア通貨危機が発生し、1998年にはそれがブラジルとロシアにも伝搬して、新興市場国が資本フローに対して開放されたことからショックが発生するという思い込みが広まっていた。2007年以降に金融危機が勃発したとき、その震源地となっていたふたつの国、米国と英国についてはIMFの金融セクター評価プログラム(FSAP)が実施されていなかった。IMFは、ある国に対して周辺から生じる脅威を察知することには長けていた。例えば2006年末には、IMF職員が、中欧と東欧における潜在的な資本市場リスクのシミュレーションを作成していた。2008年に発生した投機攻撃によって一時はハンガリーが新たな世界的危機の震源地になるかと思われたが、今にして思えばIMF職員によるシミュレーションは、それを気味が悪いほど正確に描いていた。そのような想定がされていたからこそ、2008年にハンガリーと合意したプログラムのスピードと規模が実現したのだろう。しかしIMFの先見にも限界があり、米国住宅ローン市場と金融システムに端を発したはるかに大きなショックは見過ごされてしまったのである。 

第二の教訓は、脅威の程度はつながりに左右され、事前に正確に見極めるのが困難であろうことである。2008年の世界金融危機の影響を受け、痛烈な批判の声が上がった。IMFの独立評価室も、「重度の集団思考、思想の刷り込み、そして先進大国で大きな金融危機が発生する可能性は低いという一般的な考え方」があったために、IMFはその主要目的を「達成できなかった」と批判した。これを受けて、2012年の「統合されたサーベイランス決定」では、以前の二国間サーベイランスと多国間サーベイランスを結合させていくことになった。特に、波及効果報告書は当初、主要経済国の動向の影響を重視していたが、その後システミックなつながりという考え方に移っていった。

第三の教訓は、つながりの正確な特徴ははっきりしない場合が多いということだ。複数の機関が関与するシステム内の複雑性に対処するのは容易ではない。どの機関が森を見て、どの機関が木を評価するのか。ミクロプルーデンスとマクロプルーデンスのつながりが脆弱性の主要因のひとつであることに変わりはない。金融グローバル化の波が押し寄せる中、銀行のバランスシートには厳密には何が含まれるのか。簿外の組織とのつながりはどうなっているのか。これらは、個々の銀行監督当局が分析することはできたもしれないが、IMFのような国際機関に対して定期的に伝えられることはなかった上、伝えられ得なかった。(実際のところ、国際通貨基金協定は、各国政府が特定の企業に関するデータを提供する責任を免除している。)

その結果、絶えずひずみがあった。バーゼル銀行監督委員会の監督当局会合は、ある意味では、より多くのことを知っていた。個々の木々を非常にはっきりと見ることができたのだ。幅広いレベルのグローバルアプローチでは、森は見えても木をよく調べることはできなかったのである。

第四の教訓は、長期的な課題は安定性に対する差し迫った脅威をもたらす可能性があるため、対処されなければならないということだ。気候変動、あるいはより広くは人新世が与えたダメージは、大きな、そしてますます困難を極めている課題であり、迅速な対応が求められている。また、これまでの取り組みが失望を買っているのも無理はなく、最近開催された国連気候変動枠組条約第28回締約国会議(COP28)に関しても、力強さを欠くとの評価が主だった。十分に活かされなかった歴史の教訓のひとつがここで意味を持つ。現象は、正確に測らない限り、抽象的な議論がされたり、緊張感や懸念が抱かれるだけの域を出ない。解決策を見つけるための合意形成には、データの提供が不可欠なのである。

「安全保障または政治の問題は、経済や金融の課題と一緒に解決されなければならない」

ブレトンウッズ当時、世界銀行とIMFが発展について異なる考え方を持つことができたのは、リソースを戦争に動員するという課題に対応するために主に先進工業国が作り上げた国民所得会計の枠組みがあったからである。現在では、年2回開催されるIMF・世界銀行会合が新聞報道される際に注目されるのは、GDP成長率の評価だ。IMFは今でもGDPという指標を中心に据えているため、報道でGDP成長率が重視される。しかし生物圏という観点で考えれば、GDPは資産というよりむしろ、資源を流出させるものだ。国々の長期的な富を高めるよりもむしろ侵食する。

第五の教訓は、安全保障上の課題が金融の不安定化にもつながり得るということだ。現在私たちが生きる世界では、「地政学的変化」と大まかに説明されることの多い安全保障上の懸念が、経済ニュースを席巻している。ユーラシア大陸の西の端ではロシアによるガス供給と価格設定が議論され、東の端では台湾周辺や南シナ海での緊張の高まりが話題に上るといった具合だ。あまり認識されていないが、ブレトンウッズでの合意の特徴のひとつに、一方にIMFと世界銀行、他方により幅広い国連機関という並列性がある。ブレトンウッズ機関でクォータが最大の5か国は、国連安全保障理事会の常任理事国5か国と同一で、米国、ソ連、中国、英国、フランスだった。その対称性は、ソ連がIMFに加盟しなかったことで崩れた。

2022年にロシアがウクライナに侵攻して以降、長引く戦争を受けて生まれた新たな種類のIMFプログラムがある。戦時下にある国との合意だ。この融資保証プログラムでは、「極めて高い不確実性」に直面している国の特殊な事情を考慮した変更が必要だった。また同プログラムでは、二国間債権国からの保証という形のセーフガードも必要だった。極めて高い不確実性が解消されたら債務救済を提供するというものである。ウクライナの苦難により1944年の教訓が改めて浮き彫りになっている。安全保障または政治や軍事の問題は、経済や金融の課題と一緒に解決されなければならないという教訓である。ロシアとウクライナのような戦争は今、世界各地に広がっており、中でもスーダンではそれが顕著だ。繁栄ではなく紛争がグローバル化してしまっているのだ。紛争から生じる不確実性に対する適切な答えを見つけ出すことこそが、過去に世界を大惨事へと導いたゼロサム思考から脱却するための重要な一歩なのである。

ハロルド・ジェームズはプリンストン大学歴史・国際関係論教授。IMF史学者。

記事やその他書物の見解は著者のものであり、必ずしもIMFの方針を反映しているとは限りません。